
監修者
株式会社日本提携支援 代表取締役
大野 駿介
過去1,000件超のM&A相談、50件超のアドバイザリー契約、15組超のM&A成約組数を担当。
(株)日本M&Aセンターにて、年間最多アドバイザリー契約受賞経験あり。
新規提携先の開拓やマネジメント経験を経て、(株)日本提携支援を設立。
M&Aの交渉が佳境に入るほど、資料やメールのやり取りでは伝わらない「現場の空気」が成否を分けていきます。財務諸表の数字は画面越しに確認できても、経営者の人柄、従業員の雰囲気、取引先との関係性といった「数字に表れない価値」は、実際に現場へ足を運んで初めて見えてくるものです。
この記事では、IRLという言葉の意味を起点に、M&Aの実務においてオンラインと現場を「どう使い分けるか」という実践的な視点を整理します。
1. IRL(In Real Life)とは何か
IRLはIn Real Lifeの略で、「現実の場で」「実際に直接」を意味する表現です。もともとインターネット・SNS文化の中で生まれた略語で、「IRL友達(ネット上ではなく現実の友人)」「IRL会議(オンラインではなく対面の会議)」のように、デジタル空間と現実世界を対比させる文脈で使われてきました。
M&Aの実務においてこの概念が重要になるのは、交渉や判断の多くがオンラインやデジタル書類だけでは完結しないからです。私たちNTSが多くの支援現場で感じるのは、「資料上は問題なかったのに、実際に会ってみると話が変わった」という場面が繰り返し起きるという事実です。IRLの視点、つまり「リアルな現場で何が起きているか」を把握することが、M&Aを成功に導く上で欠かせない要素になっています。
2. M&AにおけるIRLの具体的な場面
M&Aのプロセスは、大きく「資料・データのやり取り」と「人と人が直接向き合う場面」に分かれます。後者こそがIRLの本質であり、成否を左右する局面です。
2-1. トップ面談はIRLの最重要場面
売り手のオーナー経営者と買い手企業のトップが初めて顔を合わせるトップ面談は、M&Aプロセスの中で最もIRLの意味が問われる場面です。この場は単なる条件交渉の席ではなく、互いの経営哲学や価値観、従業員への想いを直接確かめ合う信頼構築の機会です。
事前に共有した企業概要書(IM)や財務データでは伝えられない「この会社を任せられるか」「この経営者と一緒に未来を作れるか」という感覚は、対面での対話からしか生まれません。弊社では、トップ面談の準備として「会社の成り立ちや理念を自分の言葉で話せるようにしておくこと」「従業員や取引先への想いを整理しておくこと」を必ずお伝えしています。条件面の数字交渉はこの場ではなく、あくまでも人間同士の信頼を確かめる場として臨むことが大切です。
2-2. 現地視察とデューデリジェンス
デューデリジェンス(DD:M&A前に買い手が売り手企業を詳しく調査するプロセス)においても、現場を直接見る視点は欠かせません。財務DD(財務諸表の信頼性確認)や法務DD(契約書・許認可の確認)はデータで進められますが、ビジネスDDと呼ばれる事業実態の調査は、現場を直接見ることで初めて正確な評価が可能になります。
工場の設備の老朽化具合、店舗スタッフの接客態度、倉庫の在庫管理の状況といった要素は、書類からは読み取れません。NTSが支援したあるケースでは、資料上は安定した収益を示していた会社が、現地視察によって主要な技術を持つ従業員が近く退職予定であることが判明し、価格交渉の重要な論点になりました。現場を直接確かめることが、後々のトラブルを防ぐ最大の防衛策になります。
2-3. ノンネーム段階からIRLへの移行
M&Aの初期段階では、売り手の情報は匿名(ノンネーム)の状態で買い手候補に打診されます。買い手候補が興味を示し、NDA(秘密保持契約)を締結した後に初めて実名が開示され、企業概要書(IM)が共有されます。この段階まではオンラインや書面のやり取りが中心ですが、ここからトップ面談へと移行する瞬間が、まさに「オンラインから対面へ」の転換点です。
弊社では、この転換を丁寧にサポートすることを重視しています。買い手候補がどの層の担当者と面談できるのか、社長レベルで直接話せるのか、それとも担当窓口レベルにとどまるのかによって、面談の意味合いは大きく変わります。
3. IRLが企業価値評価にも影響する理由
M&Aにおける企業価値の算定は、財務データだけで決まるわけではありません。中小企業のM&Aで主流となっている「時価純資産+営業権(のれん)」の方式では、のれんの部分が実体的な収益力と買い手のシナジー(相乗効果)によって大きく変動します。
3-1. 担当者の現場感覚が株価を左右する
時価純資産の計算は誰がやっても大きな差は生まれません。しかし、のれん(営業権)の算定に使う「実体営業利益」の計算では、現場を知っている担当者かどうかで結果が変わることがあります。
たとえば、オーナー個人の資産管理目的で支払われている業務委託料や、私的な飲食費が含まれた接待交際費は、本来は利益に足し戻せる費用です。しかし現場の実態を把握していない担当者は、こうした調整を見落としてしまうことがあります。弊社では、財務資料の数字だけでなく、経営者へのヒアリングや現場確認を通じて実体収益力を正確に把握することを重視しています。
3-2. 買い手のシナジーは現場で見極める
同じ会社でも、買い手によって提示する価格は大きく異なります。同業の大手企業、新規参入を狙う戦略投資家、投資ファンドでは、それぞれ買収後の「早期回収」「アップセル・クロスセル」「PMI(統合後の経営改善)での効率化」の見込みが違うため、許容できる倍率も変わります。
「どの買い手がどんな投資ロジックを持っているか」を見極めるためには、オンラインの情報交換だけでは不十分です。実際の面談や現場確認を通じて、買い手の本気度や事業への理解度を測ることが、最終的な成約価格を最大化する鍵になります。
4. オンラインとIRLを使い分けるM&A実務の現実
現在のM&A実務では、オンライン面談やデジタルデータルーム(資料を安全に共有するオンライン上の仮想空間)の活用が一般化しています。地方の中小企業と首都圏の買い手が交渉を進める際には、移動コストや時間の節約という観点からオンラインの活用は合理的です。
弊社では、オンラインで効率化できるプロセスと対面で直接向き合うべきプロセスを明確に区別することをお勧めしています。初期の情報共有や資料確認はオンラインで進め、トップ面談・現地視察・最終条件交渉は対面で行うという使い分けが実務上の基本です。
NTSが支援した居宅介護事業者のM&Aでは、オンラインでの初期交渉を経た後、買い手企業のトップが実際に現地へ足を運んだことで、現場スタッフの質の高さと地域密着の強みを直接確認し、最終的に希望条件での成約につながりました。現場を直接見たことが買い手の決断を後押しした好例です。
5. M&Aアドバイザー選びにもIRLの視点を
M&Aを成功させるためには、支援会社(仲介会社またはFA会社)の選び方も重要です。ここでも現場で直接確かめる視点は有効で、「担当者と実際に会ってみてどう感じたか」という直接的な印象が、長期にわたるM&Aプロセスの伴走者として信頼できるかどうかの重要な判断材料になります。
「上場大手なら安心」という考え方は、実際の現場では必ずしも正しくありません。M&Aの成功は会社のブランドではなく、担当者個人の経験・業界知識・交渉力・人間性によって大きく左右されます。弊社では、担当者の成約実績や得意業種・エリアを具体的に確認した上で、自社の状況に最適な担当者をご紹介することを基本としています。
初回面談では、担当者のM&A歴や近似業種・規模の成約事例の有無、買い手候補の具体性、シナジー効果についての仮説の質を確かめることをお勧めします。こうした確認も、オンラインのプロフィールや評判ではなく、実際の面談で直接問いかけることで初めて本質が見えてきます。
